では、「視線恐怖症」の全ての人達が「プライドが高い」ということになるでしょうか。
私の見てきた「プライドが高い視線恐怖症」の人達は、皆、私に話をしている時点で「人に相談ができる」という強さを持っています。そして、彼女達に共通するものは「怒り」でした。「なぜ私がそういう目で見られなければいけないのか」など、言葉には「怯え」が感じられませんでしたし、自分を抑えるということもありませんでした。
では、そうでない「視線恐怖症」の人達はどうでしょう。
きっと人に相談することも出来ず、自分の殻に閉じこもっているのではないでしょうか。もし仮に、「あなたはおかしくない。気にし過ぎだ」と言っても、信じてくれないでしょう。幼い頃に実際に人から何かを言われた経験があったりすると、なおさらです。それは一生のトラウマとなり、自分で自分を苦しめ続けてしまうのです。そして、洋服も目立たない色を着るようになり、少しでも目立つことを極端に避けるようになります。心の中では「オシャレを楽しみたい」という気持ちがあっても、自分の欲よりも、人の視線の方が気になり、自分を抑えてしまう結果になるのです。自分を抑えることに疲れ、人間関係が億劫になり、人との接触をできるだけ避けるようになる人もいるでしょう。しかし、それは本当に悪い意味で人に「見られている」のでしょうか。それも「プライドが高い視線恐怖症」の人達と同様、尋常ではない「思い込み」とは考えられないでしょうか。
「見る」ということ
私達は、普段何気なく生活をしていても、無意識の内に色々なものを見ています。澄みきったきれいな青空であったり、道ばたの草花であったり、自分の横を通り過ぎた人の服装だったり。
それは「見よう」と思って「見ている」のではなく、自然と「目に入ってくるもの」です。しかし、「見る」という動作の中にも、実は自分の「好きなもの」と「嫌いなもの」が瞬時に判別できている、と私は思います。
友人と街を歩いていたら、
「今の人の服装見た?あれ流行ってるよね」と言われたことがあります。しかし、その時私には友人が指す「その人」が全く見えていませんでした。同じように前方を見て歩いていたのに、です。
こういった場合、考えられることは
「その人」の服装が友人の好みであった、とか友人は流行に敏感であるから、といった理由があげられると思いますが、それは、逆に言うと、私は「その人」に興味が無いということになります。
人間がする「見る」という動作は、無意識の内に、「自分のアンテナにヒットするもの」をとらえているのです。
そして、それは「好き」と思うものの場合が圧倒的に多いと私は考えていますが、「怖いものみたさ」ゆえに「嫌い」なアンテナにヒットするものが見えてしまうこともあります。
「見る」という動作には、そういった自分の中の「好き・嫌い」がわかりやすく表れているのです。
それは「見よう」と思って「見ている」のではなく、自然と「目に入ってくるもの」です。しかし、「見る」という動作の中にも、実は自分の「好きなもの」と「嫌いなもの」が瞬時に判別できている、と私は思います。
友人と街を歩いていたら、
「今の人の服装見た?あれ流行ってるよね」と言われたことがあります。しかし、その時私には友人が指す「その人」が全く見えていませんでした。同じように前方を見て歩いていたのに、です。
こういった場合、考えられることは
「その人」の服装が友人の好みであった、とか友人は流行に敏感であるから、といった理由があげられると思いますが、それは、逆に言うと、私は「その人」に興味が無いということになります。
人間がする「見る」という動作は、無意識の内に、「自分のアンテナにヒットするもの」をとらえているのです。
そして、それは「好き」と思うものの場合が圧倒的に多いと私は考えていますが、「怖いものみたさ」ゆえに「嫌い」なアンテナにヒットするものが見えてしまうこともあります。
「見る」という動作には、そういった自分の中の「好き・嫌い」がわかりやすく表れているのです。
「視線恐怖症」とは・2
「人の視線が気になる」といった経験は、誰にでもあると思います。年齢問わず、性別問わず、です。
それは、生きている上で当然のようにも思えますが、「視線恐怖症」に苦しめられている人が多いのは事実です。「自分はこういうふうに見られているのではないか」「あの人達は、私のことを話しているのではないか」
視線恐怖症に苦しめられている人達は、毎日、どこへ行っても人の視線にビクビクしています。前向きに考える人は「自意識過剰だ」ととらえるかもしれません。「他人は、皆自分が一番で、意外と人のことを見ているようで見ていない」と言う人もいます。私自身は、周りの人からよく「周りを見ている」「そんなところまで見ているの」と言われるので、人よりは他人を観察している方だと思います。しかし、それは、私も同じように人から「見られている」と意識することもあるということにもなります。ですから「視線恐怖症」の人達の気持ちが理解できないわけではありません。
友達からも「周りの視線が気になる」と相談されたことがありますが、ある時「視線恐怖症」と思われる人達は、尋常ではない「思い込み」に苦しめられていると気づきました。それはその人自身の「プライド」の高さと言っていいでしょう。周りの視線は、プライドが高い人ほど気にする、ということです。
実際、私に相談した人達は、皆スタイルも良く、顔も可愛らしい人達でしたし、「全然気にすることないのに」と私は彼女達に何度も言ったものです。彼女達自身も気づいていないかもしれませんが、彼女達の「視線恐怖症」は、自分の自信からくる「思い込み」だったのではないでしょうか。
それは、生きている上で当然のようにも思えますが、「視線恐怖症」に苦しめられている人が多いのは事実です。「自分はこういうふうに見られているのではないか」「あの人達は、私のことを話しているのではないか」
視線恐怖症に苦しめられている人達は、毎日、どこへ行っても人の視線にビクビクしています。前向きに考える人は「自意識過剰だ」ととらえるかもしれません。「他人は、皆自分が一番で、意外と人のことを見ているようで見ていない」と言う人もいます。私自身は、周りの人からよく「周りを見ている」「そんなところまで見ているの」と言われるので、人よりは他人を観察している方だと思います。しかし、それは、私も同じように人から「見られている」と意識することもあるということにもなります。ですから「視線恐怖症」の人達の気持ちが理解できないわけではありません。
友達からも「周りの視線が気になる」と相談されたことがありますが、ある時「視線恐怖症」と思われる人達は、尋常ではない「思い込み」に苦しめられていると気づきました。それはその人自身の「プライド」の高さと言っていいでしょう。周りの視線は、プライドが高い人ほど気にする、ということです。
実際、私に相談した人達は、皆スタイルも良く、顔も可愛らしい人達でしたし、「全然気にすることないのに」と私は彼女達に何度も言ったものです。彼女達自身も気づいていないかもしれませんが、彼女達の「視線恐怖症」は、自分の自信からくる「思い込み」だったのではないでしょうか。
「見られる」恐怖心
芸能界など「見られる」ことが仕事の人達は、それが心地よくもあるでしょう。「自分は人とは違う」「注目されている」という意味になるからです。そして、そう感じることができるのは、「自分に自信を持っている」からこそです。華やかな世界にいる以上、どんなに奥ゆかしい人であっても、一般人とは違う「プライド」があると私は思います。だからこそ、華やかな厳しい世界で生きていけるのです。
では、普通の世界で生きている人達にとって「見られる」ことは、どう受け止められるのでしょうか。芸能人同様、自分に自信を持っている人は、それが快感なのかもしれません。しかし、私達の現実の世界で「見られる」ことの意味は、あまり良くない意味で使われてるような気がします。
人のファッションを見て、コソコソと話をする人達。人の体型を見て、笑う人達。そういう人が多い為、「見られる」人達は、「自分のファッションはおかしいのか」「自分の何かが変わっているのか」と自分を責めるようになり、その結果、視界の角に「見られている」感覚を感じ取ると、どうしようもない恐怖感でいっぱいになる「視線恐怖症」になるのです。
「視線恐怖症」は生きている人間なら、誰しも一度はなっているのではないでしょうか。
次からは、「視線恐怖症」について具体的に考えてみたいと思います。
では、普通の世界で生きている人達にとって「見られる」ことは、どう受け止められるのでしょうか。芸能人同様、自分に自信を持っている人は、それが快感なのかもしれません。しかし、私達の現実の世界で「見られる」ことの意味は、あまり良くない意味で使われてるような気がします。
人のファッションを見て、コソコソと話をする人達。人の体型を見て、笑う人達。そういう人が多い為、「見られる」人達は、「自分のファッションはおかしいのか」「自分の何かが変わっているのか」と自分を責めるようになり、その結果、視界の角に「見られている」感覚を感じ取ると、どうしようもない恐怖感でいっぱいになる「視線恐怖症」になるのです。
「視線恐怖症」は生きている人間なら、誰しも一度はなっているのではないでしょうか。
次からは、「視線恐怖症」について具体的に考えてみたいと思います。
視線恐怖症」とは・1
視線恐怖症とは、人に「見られている」ことで恐怖心が芽生え、それによって自分の個性を抑制してしまう病、だと私は思います。
なぜ「見られる」ことが「恐怖」に変わってしまうか、という点については、自らの経験がそれを物語っていると考えられます。「視線恐怖症」の人は、自分自身も他人を偏見の目で見た経験がある為、そういった恐怖心が発生するのです。
そして、それはとても幼い頃から、誰もが経験する当然のことの一つです。
幼稚園や小学校。
幼いころの集団生活で、人間は初めてたくさんの他人と接することになります。冒頭にも述べましたが、人によって生活環境はさまざま。色々な性格の人間がいて当然なのです。そこで、初めて「先生」と呼ばれる人から知識を教えてもらうわけですが、教育の現場では「叱る」という場面がたくさんあります。
先生が叱る人
先生に叱られた人
自分ではない誰かの行動を目にした時、私達は先生に対して「怖いな」という感情をもち、叱られた人については「皆の前でかわいそうだ」などと同情したりします。そして「自分は気をつけよう」と学ぶのです。
幼い頃から「自分以外の誰か」を見て過ごしている私達は、無意識の内に「見られている」人の心理まで読み取ろうとするのです。
そういった心理こそ、「視線恐怖症」の原点ではないでしょうか。
なぜ「見られる」ことが「恐怖」に変わってしまうか、という点については、自らの経験がそれを物語っていると考えられます。「視線恐怖症」の人は、自分自身も他人を偏見の目で見た経験がある為、そういった恐怖心が発生するのです。
そして、それはとても幼い頃から、誰もが経験する当然のことの一つです。
幼稚園や小学校。
幼いころの集団生活で、人間は初めてたくさんの他人と接することになります。冒頭にも述べましたが、人によって生活環境はさまざま。色々な性格の人間がいて当然なのです。そこで、初めて「先生」と呼ばれる人から知識を教えてもらうわけですが、教育の現場では「叱る」という場面がたくさんあります。
先生が叱る人
先生に叱られた人
自分ではない誰かの行動を目にした時、私達は先生に対して「怖いな」という感情をもち、叱られた人については「皆の前でかわいそうだ」などと同情したりします。そして「自分は気をつけよう」と学ぶのです。
幼い頃から「自分以外の誰か」を見て過ごしている私達は、無意識の内に「見られている」人の心理まで読み取ろうとするのです。
そういった心理こそ、「視線恐怖症」の原点ではないでしょうか。